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エッセイ
エッセイや日々思ったことを書いていきます


ちょうどいいかっこよさ
かっこいいなと思う人の考え方として 「世の中、意外とこんなもんなんだ」という精神がある。 がむしゃらに頑張っている人のかっこよさも、もちろんある。 でも、ちゃんと全体を眺められる人は、むやみに力を入れずに、「これはこのくらいでいい」と思えるような、余裕を見積もる力がある。 わたしはまだ、そのさじ加減があまりわからない。 だから、そういう人を見るとかっこいいなと感じる。 それに、そういう人は世の中を無理にコントロールしない。 「こうあってほしい」と押し付けず、「今はこうなんだな」と受け入れている。 たぶん、それはいい意味で、肩の力が抜けているということ。 逆らって疲弊するよりも、流れを見極めて泳いでいる。 これは、決して諦めてるわけじゃない。 その流れの中で、どう生きるかをちゃんとを考えている。 流されるときは、流される。 けれど自分の番だ!と思ったときに芯の部分を見せる。 そういうメリハリのある人間になりたい。 全力よりも、ちょうどいいかっこよさのある人に。 今日も読んでいただきありがとうございます。 またまどろみのなかで会いましょう。
政美 森田
10月22日読了時間: 1分


一緒に生きる
先日、実写映画の『秒速5センチメートル』を観た。 そのときふと、江國香織さんの『東京タワー』のある一節を思い出した。 「一緒に暮らしてはいなくても、こうやって一緒に生きてる」 江國香織『東京タワー』より 「一緒に生きる」とはどういうことなのだろう。 私はこの言葉が出てくるたびに、そんなことを考えていた。 それまで「一緒に生きる」ことは、その関係性を変えずに生きることだと思っていた。 家族や、友達、恋人。この小説でいえば、不倫関係だろうか。 わたしたちはそれぞれを他人として、ある関係性の中で、今生きている。 「一緒に生きる」とはその関係を続けようという、一つの約束のようなものだと、わたしは思っていた。 しかし、この映画を観たときに、私が言われた「一緒に生きる」という感覚がなんとなく腑に落ちた。それは関係性が変わったり、距離が離れていても、そんなものに影響されないくらい、何かもっと奥の方に繋がりを持っていること。 目に見える関係の繋がりではなく、一緒に生きる相手が、常に自分の身体の中にいて、わたしの血の中を巡っている。だから、離れる/離れないという距
政美 森田
10月21日読了時間: 2分


「オシャレ」について
最近は「オシャレ」という言葉に注目している。 わたしはたまに自分の生活や仕事を話すときに「オシャレですね」と言われることがある。 もちろん、ひとまずの褒め言葉やお世辞の一つとして言っているのはわかっている。しかし、わたしは素直に「ありがとう」と受け取る人間ではない。というよりもそういう並のやりとりに、なんだか嫌気がさしてしまう。 むしろ、すかさず「どういうところがオシャレだと思ったんですか?」と相手のオシャレの定義を聞いてみる。どうも、面倒な人間らしい。 人には「憧れているけれど、なりたいわけじゃない」みたいな領域がある。むしろ自分以外の職業それぞれに、そんなものを抱いていたりする。 隣の芝生はオシャレ。ということだろう。 「見える」。これがオシャレにとっては一番大事だと思う。 すなわち基本は他者目線。 相手の話したことを、想像できる範囲の中で一番美しいものとして評価するのが「オシャレ」の正体。 泥臭い部分を見つければ、憧れや羨ましさなど持ちはしないだろうし、結果「オシャレ」だという評価にはならない。 だから、わたしはたった2,3行ほどの相手の暮
政美 森田
10月20日読了時間: 2分


すべてがわたしを知ることへ
それぞれ得意なことがあって、それぞれ苦手なことがある。 あなたの悩みはもしかしたら、苦手なものに立ち向かおうとしているからかもしれない。 身につけなきゃいけないことを、うまくやれない自分に腹が立ったり、ショックを受けているのかもしれない。 そういうとき、まっさきに自分を責めちゃいけない。 それは、自分を一つ理解した、ということにすぎない。 あなたにはそれがほんとうに必要だろうか。 ほかの選択肢はないのか。 たとえば、誰かは数字が得意で、誰かは人の気持ちを察するのが得意で、誰かは空気を和ませるのが得意。 そんな風に人は優れているし、違いがある。 苦手を克服することは立派だけれど、それが“あなたらしさ”をすり減らしてまでやることなのかは、一度立ち止まって考えてみてもいい。 苦手なことを避ける?ちょっと考えが甘いんじゃないか。 そう思う人もいるだろう。 けれど判断するのは、いつだって自分だ。 「向き合うべき壁」と「無理に越えなくてもいい壁」は、見た目がよく似ている。 しかし、それは他の人にはわからない。 なぜなら他の人から見えているのは、その人の壁だか
政美 森田
10月17日読了時間: 3分


言葉の種
わたしたちは言葉にする数よりも、思うことの数がずっとずっと、多い。 そして、それらのほとんどは言葉にするほどでもない、紡ぐ前に消えてしまうようなものばかりだ。 たとえば、すてきなみどり色をした建物があったり、コアラみたいな形をした雲が浮かんでいたり、君に似合いそうな洋服を見つけたとき。はじめての美味しさに出会ったり、あなたのまつ毛が意外にも長いのだと気付いたとき。 どれも、あなたの心の中で瞬間ときめいた、大発見だ。 けれど、言葉にする相手もいなかったり、そんなことを言っても何の意味もないし、そんなことを素直に言う自分がどこか恥ずかしい。そんな言葉にならない判断を無意識でしているうちに、言葉になる前の思いが、雪みたいに溶けていく。 しかし、こういう小さなことを言葉にしてみると、少しだけ、確実に世界は変わる。 別に共感されなくてもいい。 自分が感じたことをただ、何か表現してみる。 自分が何かを感じていることを実感する。 途端に立ち現れる、感覚。 わたしは他人のこうした部分を知るのが好きだ。 その人がなににどう感じるのか、どうでもいいことほど、聞きたく
政美 森田
10月15日読了時間: 2分


レプリカ
わたしは最近、自分の中にある衝動的な何かの正体をずっと考えている。 自分の中には「言葉にしちゃいけない領域」がある。「言葉にできない」と言った方がふさわしいだろうか。 きっと、この世界の何割の人かは、その感覚をなんとなく共有できていると思う。 結局、言葉は無限なようで有限。だから、どんなにこだわったとしても表現が限られてしまう。 そしてそもそも、それらは「言葉」として出力すると、破綻してしまう性質のもので、もっとふわふわとしていたり、尖ったものだったりする。だからと言って形になるわけでもないし、それはそれでしかない。それ以外ということはない。そんなものを言葉にしたとき、途端に偽物になってしまう。それはそうではないんだと。 だから「言葉にできない」と同時に「言葉にしちゃいけない」。 言い換えるなら自分という存在を、また別のもので象られたような感じだろう。象られたものは、「象られたもの」であるだけで、本質的には全く違う。 本物とレプリカや贋作のようなイメージが近いのだろうか。 本物は本物にこそ意味があり、そこで使われた言葉は本当ではない。...
政美 森田
10月14日読了時間: 2分


ラブレター
そちらの方が正しいとわかっていても、それを選べない。 そちらの方が幸せなのだろうとわかっていても、本当にそうは思えない。 なにかに、抗いたいわけじゃない。 ただ、自分の心がどうしてもそちらへ惹きつけられる。 どうしようもなく、心がそちらへ向いてしまう。 もちろん、危機感もある。 これでは生きていかれぬと。未来志向ではないと。 激しく傷ついて、ボロボロになってしまうかもしれない。 それがずっと違和感だった。 なぜボロボロになってはいけないのかと。 本能の響くものに従えれば、どうなっても構わないじゃないか。 ひとびとと生きすぎて、共感していくうちに、幻想的なゴールが見えてしまっているんだ。 周りがずっと遠くのなんだか典型的な「豊かさ」を見据えているときに、わたしはその事実だけを見ている。 その事実の奥に見ている、他人には見えない思いが、わたしにとっての最大の「豊かさ」だ。 それは周りに「不幸そうだね」と言われる。 それでも、それでも私は選び続けるし、選び続けたい。 どのような人であっても、愛する人と共に生き、 どのようなことであっても、したいことをし
政美 森田
10月13日読了時間: 2分


休みかたを知る。
今日は「熟睡の日」らしい。 みなさんは、日頃きちんと休めていますか。 この歳になると、よく眠れていないことに悩む人や、馬車馬のように働いたりして、休むことを忘れる人などが周りにちらほら出てくる。 休むのを忘れるほど働くことができるのは、良いことだ。 しかし、人として生きるにはある程度、休むことを覚えるのも大事だったりする。 「休む」というのは、身体はもちろんだが、心持ちがかなり大事なように思う。 つまり休みをとっていても「休みの心持ち」でなければ、うまく休めない。 逆に仕事をしていても「休みの心持ち」があれば、休めている。 究極に理想的なのは、仕事中であっても、休みの日でも「休みの心持ち」があることだ。「休めている」が何かということは、人のそれぞれの持ちようなのだけれど、多くの人はリラックスしている状態や、心残りのない緊張感や刺激があるということだろう。 ただ、いつも予想できないことが起こる仕事や、何かに追われるような仕事、重労働をしている人、苦手なことをしている人というのは、なかなか休み気分でというのは難しいのかもしれない。 だから、そういう人
政美 森田
10月9日読了時間: 2分


ニットを着るということ
だんだんと秋らしい気候になってきた。 それと共に、街の人たちの服の袖や丈も長くなり、葉も順に色づいてきた。 一般的には衣替えのようなものがあるのかもしれないが、我が家ではそんなはっきりしたものはない。 長袖を着るタイミングで一枚取り出し、洗濯をして、戻すときにクローゼットにいっぱいある半袖を順次取り出して、長袖をいれるスペースを作る。 そうして今日はニットを取り出した。 秋服はニットが心地良い。すぽっと着やすいし、厚みのある生地が暖かく包んでくれるのは安心する。 ただ、着て外へ出て、毛玉がたくさん生まれていたことに気がつく。 ニットはこれだから。 毛玉ができても、何も不都合はないのだけれど、オシャレ好きの友人に言われて、去年から意識するようになった。そのせいで、毛玉ができている自分に最悪感を感じるようになってしまった。 だから、こっそり毛玉をむしる。赤いニットにグレーの毛玉が、いくつもついていた。 仕事をしながら、家に帰って毛玉を取ることを考えてみる。 思えば服の毛玉をむしる以外の方法でとったことがないので、どうやってとればいいのだろうと考えてみ
政美 森田
10月7日読了時間: 2分


「痛み」から生まれる
何かをつくろうと思ったとき「痛み」の感覚が、その原動力になる。 この間、ある作り手の友人と話していて『痛み』や『つらさ』を感じたとき、それが制作の動機になっているよね、という話をした。 たしかに、自分がなにかを作ること、表現をすることは、そうした負の感情に対する課題解決の手...
政美 森田
9月24日読了時間: 2分


会話は鏡のようなもの
人と話をすると、自分のことがわかる。 人と話していないと、自分のことを見誤ってしまう。 会話というのはすごいもので、話していると自分の姿が鏡のように反射して見える。 そして、それはたいへん客観的で、素敵な部分も、歪んでいる部分も、露わになる。...
政美 森田
9月22日読了時間: 2分


「きっかけ」の誰かさん
趣味や好きなこと。 人は自分から興味を持ったと思っていても、その始まりにはたいてい誰かの存在がある。 「知ること」は、世界へ入っていく最初のステップ。つまりある扉を開くことだ。 でもその入口を見つけるのは、誰かの一言や、そばにいた人の姿がきっかけになることが多い。...
政美 森田
9月19日読了時間: 1分


ヒトハルシネーション
AIを使っていると、たまに事実とは異なるものを、最もらしく出力することがある。 これをハルシネーションという。日本語で訳すと「幻覚」だ。 似たようなことが機械やロボットで起きるとき、「エラー」や「バグ」と呼ぶが、AIでは「幻覚」という。...
政美 森田
9月9日読了時間: 2分


甘えられる人、頼る人
甘えられる人と、頼る人。 この二つは似ているようで、はっきりと線が引かれている。 多くの人は甘えることができない。 そもそも人は最初から甘えることができなかった。 赤子は、自分で意識して甘えなどしない。親が子を甘やかす。そういう受動的な甘やかしをただ受け入れる。人は生まれ持...
政美 森田
9月8日読了時間: 3分
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