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「オシャレ」について

最近は「オシャレ」という言葉に注目している。

わたしはたまに自分の生活や仕事を話すときに「オシャレですね」と言われることがある。

もちろん、ひとまずの褒め言葉やお世辞の一つとして言っているのはわかっている。しかし、わたしは素直に「ありがとう」と受け取る人間ではない。というよりもそういう並のやりとりに、なんだか嫌気がさしてしまう。


むしろ、すかさず「どういうところがオシャレだと思ったんですか?」と相手のオシャレの定義を聞いてみる。どうも、面倒な人間らしい。


人には「憧れているけれど、なりたいわけじゃない」みたいな領域がある。むしろ自分以外の職業それぞれに、そんなものを抱いていたりする。

隣の芝生はオシャレ。ということだろう。


「見える」。これがオシャレにとっては一番大事だと思う。

すなわち基本は他者目線。

相手の話したことを、想像できる範囲の中で一番美しいものとして評価するのが「オシャレ」の正体。


泥臭い部分を見つければ、憧れや羨ましさなど持ちはしないだろうし、結果「オシャレ」だという評価にはならない。


だから、わたしはたった2,3行ほどの相手の暮らしを聞いても「オシャレですね」とは言いたくないし、言われても素直に受け取ることができない。

「本当のことを言ってもオシャレって思ってくれますか?」と本当は言いたい。

…やっぱり、面倒な人間だ。


けれどだからこそ、自分が「オシャレ」という言葉には他の人よりも一段の価値があると思っていたりする。


今日も読んでいただき、ありがとうございます。

また、まどろみの中で会いましょう。



 
 
 

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