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一緒に生きる

先日、実写映画の『秒速5センチメートル』を観た。

そのときふと、江國香織さんの『東京タワー』のある一節を思い出した。

「一緒に暮らしてはいなくても、こうやって一緒に生きてる」 江國香織『東京タワー』より

「一緒に生きる」とはどういうことなのだろう。

私はこの言葉が出てくるたびに、そんなことを考えていた。


それまで「一緒に生きる」ことは、その関係性を変えずに生きることだと思っていた。

家族や、友達、恋人。この小説でいえば、不倫関係だろうか。


わたしたちはそれぞれを他人として、ある関係性の中で、今生きている。

「一緒に生きる」とはその関係を続けようという、一つの約束のようなものだと、わたしは思っていた。


しかし、この映画を観たときに、私が言われた「一緒に生きる」という感覚がなんとなく腑に落ちた。それは関係性が変わったり、距離が離れていても、そんなものに影響されないくらい、何かもっと奥の方に繋がりを持っていること。


目に見える関係の繋がりではなく、一緒に生きる相手が、常に自分の身体の中にいて、わたしの血の中を巡っている。だから、離れる/離れないという距離の概念ではなく、言うなれば、相手が自分の一部になってしまうということ。

それが本質的な「一緒に生きる」ことなのだと。


そして映画では明里が言った「貴樹くんならきっと大丈夫」。

これが「一緒に生きる」という言葉にあたる。

この言葉は別れではなく、「一緒に生きよう」とした言葉だ。


だから明里はその後も、約束を覚えていたし、明里にとっての「過去」は「思い出」ではなく「日常」なのだ。離れたあとも、貴樹は明里の日常だったし、貴樹との日々は化石になってしまうのではなく、自分の中でずっと巡り続けている。それが「一緒に生きる」ということ。決して、関係を続けることでも、関係をやり直すことでもない。


だから、離れたとしても、一緒に生きている。

そうすれば本質的には離れやしないんだ、と。



今日も読んでいただき、ありがとうございます。

あなたは誰と一緒に生きていますか?

また、まどろみの中で会いましょう。




 
 
 

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