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わたしの宇宙
ときどき、自分が海に漂っているような想像をする。 海の中で漂う微生物のように、潮の流れを知らずに生きている。 それくらい、自分が小さく感じ、同時に世界の大きさを知る。 自分という範囲が、いかにちっぽけなものであるか。 言葉というもので育ってきた人間の営みさえ、小さなことに思える。 自分が憂いているもの、感情を持つもの、してきたこと。 そういうものが宇宙という視点でみたときに、燃える星の輝きにも満たない、その百分の一のかけらくらいのものなのだと。 けれど、私には、私の中にあるもの、周りのもの、それが月のようで星のようで、金星のようで、太陽。あなたは紛れも無く熱く輝く太陽であり、あの子は一等星。みんなそれぞれキラキラと、天体みたいに存在している。 それから、わたしの未来はブラックホールで、過去は地球。 そういうものがわたしのからだの中に広がっている。 最近、誰かと宇宙の構造があらゆるものすべての構造だ、という話をした。 多分、私たちも宇宙の一部でそれはとてつもなく小さいかもしれないが、確かにそれぞれが宇宙なのだ。 今日も読んでいただきありがとうござい
政美 森田
11月12日読了時間: 1分


景色
先日、北海道に住んでいながら、人生ではじめて函館山の『百万ドルの夜景』を観た。 じつは、以前にも一度、函館山に登ったことがある。 父が函館の生まれで、叔父の家に行ったときに、車で連れていってくれた。 そのときは、叔父の車を降りてから、鎖のかかった、いかにも入ってはいけないエリアに入り込んだ。しかし、夜景は観られなかった。 当時の私は7歳くらいで、暗い山が怖くて、景色どころではなかったからだ。 そんな記憶から20年後、山の恐怖も克服し、正規ルートで函館山の景色を観る。ただ、そんなに期待感はなかった。そもそも人生で夜景にそんなに感動したことがなかったからだ。記憶があるとすれば、数年前に、北見に住む知人に見せてもらった夜景は確かに綺麗だった。けれど、そのくらい。 だから、夜景というものが、そんなに綺麗なものだとは思っていなかった。 まず、駅から出ているバスに乗る。 山に入ると、バスの照明が消え真っ暗になる。車内は密かにざわつき、ただバスは進む。そうして揺られていると、木々の隙間からチラチラと明かりが差し込んでいるのが見えた。バスが大きく揺れるたび、右の
政美 森田
11月11日読了時間: 2分


大人になりたい
こうしたことを書いていると、まだまだ自分には書くことがないな、と思う。 それは人生経験の差だなと如実に感じる。 きっと文章を書くのは50歳くらいからがちょうど良い。多分、前にもそんなことを書いたような気がする。 もちろん思い出せば出来事はあって、書けるけれど、なんでもいいってわけじゃない。けれど、じゃあ何かを限定しているのかと言われれば、そうでもない。 思ったことを書くにしても、やっぱりもう一歩先へ行きたいなと思う。 そのもう一歩先が、形容しがたい年齢や経験としての深みだったりする。 わたしの思う大人は、「余裕」とか「俯瞰」「折り合い」のような言葉に近いのだけれど、それがうまいバランスで混ざり合っている感じだ。そして本当の大人たちは、そういうのをうまく隠すし、むしろだからこそ、子どもっぽく見えたりする。 わたしはコピーライターの糸井さんが書く「 今日のダーリン」 が好きで「今日のまどろみ」をはじめた。 最初は色々真似しようとしたし、どんな雰囲気の文章を書くかもかなり参考にした。 今でもたくさん読んでいる。 けれど、わたしが自然と書いてしまうような
政美 森田
11月10日読了時間: 2分


無駄から生まれるもの
効率化、効率化。 どこへ行っても、その言葉を聞く。 どうやらこの世界は、できるだけ無駄をなくそうとしているらしい。 AIが文章を書き、機械が暮らしを読み、仕事の流れもどんどん最短になっていく。 でも考えてみれば、人間はそもそも、“遠回りする生き物”だったのではないか。 原始のころ、人はお腹を満たすために狩りをした。 けれど、腹が満たされただけでは終わらず「もっと楽にできないか」と考えた。 火を見つけ、道具を作り、言葉を覚えた。 どれも、生きるための無駄な寄り道だったのかもしれない。 けれどその寄り道が、文化をつくり、芸術を生んだ。 効率化の先にあるのは、生存。 無駄の先にあるのは、表現。 効率を極めれば、正確な結果はすぐに出せる。 けれど、そこに思考の余白や偶然の出会いは残っているだろうか。 文章を書くときも、人と話すときも、無駄な時間の中にこそ、発酵するようにゆっくりと育つものがある。 たとえば、誰かと何気ない話をしているとき。 「それ、ネットで調べたら早いよ」と思う一方で、相手の声のトーンや、ちょっとした言葉の選び方に、その人の世界の見え方が
政美 森田
11月5日読了時間: 2分


反省の反省
なにかに失敗をしてしまったときや、反省しようと思うとき、多くの場合は、失敗してしまったことばかりが目についてしまう。 けれど本当に反省に意味があるのは、悪いところを責めることではなく、「どこが良くなかったのか」、そして「どこまで出来ていたのか」を正しく見つめていけることなんだと思う。 たとえば、人前でうまく話せなかったとしても、 「緊張して声が震えた」だけに目を向ければ、それで終わってしまう。 「話す順番を整理できていた」とか「最後まで話そうとした」「伝えるべきことは伝えた」など、小さなことでも、できていた部分に目を向けてみる。 そうやって良かったところと課題を分けて見つめられると、自然と「次はこうしてみよう」という気持ちが生まれる。 反省は、自分を責めて落ち込ませる時間ではなく、自分を知って次に進むための時間。 これは、子どもに何かを教えるときも同じだと思う。 たとえば子どもがうまくできなかったとき、「なんでできなかったの?」と責めるより、「ここまではできてたね」「次はどうすればいいと思う?」と話しかけるほうが、子どもの心は動く。...
政美 森田
10月30日読了時間: 2分


理想の恋人
先日、仕事仲間と恋バナ?をしていて「理想の恋人」について聞かれた。 今までは「尊敬できる人」とか「優しい人」と答えていたけれど、その日の話の流れから、“これさえあれば、じゅうぶん幸せの最低限”みたいなニュアンスを感じて、うーんと悩んだ末、「毎日おはようと言ってくれる人」と答えた。 きっと、私はこれで世界中の男性の10分の9くらいの人が対象外になってしまう。 それくらい、毎日のささやかなあいさつは難しいらしい。 だからといって、あいさつを求めているわけではない。 これが女心の難しいところ。 ただ、気が変わっていないことを、何かしらの形にしてほしいだけなのだ。 その例えとして、おはようを言う。 毎日お花をくれるなら、それがいいし、毎日歌を歌ってくれるなら、これほど幸せなことはない。 けれど、お花はお金がかかるし、歌が苦手な人もいる。もし連絡が苦手なら、居場所は伝えるから、会いに来てくれたっていい。 朝が無理ならお昼ご飯のときでもいい。 夜になってしまったら「おやすみ」でもいい。 でも、できれば朝の「おはよう」がいい。 もちろん、日頃の行いによっては、
政美 森田
10月28日読了時間: 3分


わたしの手、あなたの手
使い方や形、しぐさ。 手は、体のパーツの中でも特に自分を表している部分なんじゃないかと思う。 それは、生まれたままの形と、そこから自分が何をやってきたか、何に触れてきたかという足跡が同時に表れる。 だから、私は人の手が割合好きだったりする。 それは外見的な美しさとかではなく、その人と一緒に生きてきた、唯一無二の手に、どこかロマンを感じるというのか、感動をしている。それは、恋にも似ている。 職人の手が不恰好にもかっこいいのは、その筋の通し方が手に表れているからだろう。 一方で、モデルのようにきれいな手をきれいに保ち続けるというのも、並ではない。 また手がどんなコミュニケーションをとるかで、人との関係性が築かれる。 謝るときには手を合わせ、喜ぶ時には仲間とハイタッチをする。 好きな人と手を繋いだり、困っている人がいたら手を差し伸べ、守りたい人には、その手で抱きしめることができる。 そういうのが出来なくて、迷っている手もまた、自分らしい。 手は、すぐ近くにある自分の人生の姿見だ。 わたしは今日も明日も明後日も、何かをつかみ、手放して、この手と生きていく
政美 森田
10月27日読了時間: 2分


旅のこたえ
考えることよりも、考えないほうがずっと楽に生きられる。 向き合うことよりも、向き合わないほうが衝突せずに済む。 それでも、わたしたちは考え、向き合う。 怒り、戦い、苦しみ、生きて、生きて、息絶える。 なぜだろう。 その先に、何があるのか。 終わりを待つだけのわたしたち。 何に動かされているのだろうか。 これが、生きる理由だろうか。 その先になにもないとわかっていたら、何もしないでいられるのだろうか。 無に還るとわかりながら、何を残そうとするのだろうか。 何を信じているのだろうか。 何を願うのだろうか。 どこへ向かうのか。 「わたし」はどこまでなのだろうか。 世界は、わたしだけで出来ているし、 世界は、あなただけで出来ている。 そこには本当は何もなくて、 ただ、あるこということだけがぼんやりと事実めいている。 事実めいたそれを、あなたは見る。 わたしは見る。 考える。 何もない世界に、見る。
政美 森田
10月23日読了時間: 1分


ちょうどいいかっこよさ
かっこいいなと思う人の考え方として 「世の中、意外とこんなもんなんだ」という精神がある。 がむしゃらに頑張っている人のかっこよさも、もちろんある。 でも、ちゃんと全体を眺められる人は、むやみに力を入れずに、「これはこのくらいでいい」と思えるような、余裕を見積もる力がある。 わたしはまだ、そのさじ加減があまりわからない。 だから、そういう人を見るとかっこいいなと感じる。 それに、そういう人は世の中を無理にコントロールしない。 「こうあってほしい」と押し付けず、「今はこうなんだな」と受け入れている。 たぶん、それはいい意味で、肩の力が抜けているということ。 逆らって疲弊するよりも、流れを見極めて泳いでいる。 これは、決して諦めてるわけじゃない。 その流れの中で、どう生きるかをちゃんとを考えている。 流されるときは、流される。 けれど自分の番だ!と思ったときに芯の部分を見せる。 そういうメリハリのある人間になりたい。 全力よりも、ちょうどいいかっこよさのある人に。 今日も読んでいただきありがとうございます。 またまどろみのなかで会いましょう。
政美 森田
10月22日読了時間: 1分


一緒に生きる
先日、実写映画の『秒速5センチメートル』を観た。 そのときふと、江國香織さんの『東京タワー』のある一節を思い出した。 「一緒に暮らしてはいなくても、こうやって一緒に生きてる」 江國香織『東京タワー』より 「一緒に生きる」とはどういうことなのだろう。 私はこの言葉が出てくるたびに、そんなことを考えていた。 それまで「一緒に生きる」ことは、その関係性を変えずに生きることだと思っていた。 家族や、友達、恋人。この小説でいえば、不倫関係だろうか。 わたしたちはそれぞれを他人として、ある関係性の中で、今生きている。 「一緒に生きる」とはその関係を続けようという、一つの約束のようなものだと、わたしは思っていた。 しかし、この映画を観たときに、私が言われた「一緒に生きる」という感覚がなんとなく腑に落ちた。それは関係性が変わったり、距離が離れていても、そんなものに影響されないくらい、何かもっと奥の方に繋がりを持っていること。 目に見える関係の繋がりではなく、一緒に生きる相手が、常に自分の身体の中にいて、わたしの血の中を巡っている。だから、離れる/離れないという距
政美 森田
10月21日読了時間: 2分


「オシャレ」について
最近は「オシャレ」という言葉に注目している。 わたしはたまに自分の生活や仕事を話すときに「オシャレですね」と言われることがある。 もちろん、ひとまずの褒め言葉やお世辞の一つとして言っているのはわかっている。しかし、わたしは素直に「ありがとう」と受け取る人間ではない。というよりもそういう並のやりとりに、なんだか嫌気がさしてしまう。 むしろ、すかさず「どういうところがオシャレだと思ったんですか?」と相手のオシャレの定義を聞いてみる。どうも、面倒な人間らしい。 人には「憧れているけれど、なりたいわけじゃない」みたいな領域がある。むしろ自分以外の職業それぞれに、そんなものを抱いていたりする。 隣の芝生はオシャレ。ということだろう。 「見える」。これがオシャレにとっては一番大事だと思う。 すなわち基本は他者目線。 相手の話したことを、想像できる範囲の中で一番美しいものとして評価するのが「オシャレ」の正体。 泥臭い部分を見つければ、憧れや羨ましさなど持ちはしないだろうし、結果「オシャレ」だという評価にはならない。 だから、わたしはたった2,3行ほどの相手の暮
政美 森田
10月20日読了時間: 2分


すべてがわたしを知ることへ
それぞれ得意なことがあって、それぞれ苦手なことがある。 あなたの悩みはもしかしたら、苦手なものに立ち向かおうとしているからかもしれない。 身につけなきゃいけないことを、うまくやれない自分に腹が立ったり、ショックを受けているのかもしれない。 そういうとき、まっさきに自分を責めちゃいけない。 それは、自分を一つ理解した、ということにすぎない。 あなたにはそれがほんとうに必要だろうか。 ほかの選択肢はないのか。 たとえば、誰かは数字が得意で、誰かは人の気持ちを察するのが得意で、誰かは空気を和ませるのが得意。 そんな風に人は優れているし、違いがある。 苦手を克服することは立派だけれど、それが“あなたらしさ”をすり減らしてまでやることなのかは、一度立ち止まって考えてみてもいい。 苦手なことを避ける?ちょっと考えが甘いんじゃないか。 そう思う人もいるだろう。 けれど判断するのは、いつだって自分だ。 「向き合うべき壁」と「無理に越えなくてもいい壁」は、見た目がよく似ている。 しかし、それは他の人にはわからない。 なぜなら他の人から見えているのは、その人の壁だか
政美 森田
10月17日読了時間: 3分


言葉の種
わたしたちは言葉にする数よりも、思うことの数がずっとずっと、多い。 そして、それらのほとんどは言葉にするほどでもない、紡ぐ前に消えてしまうようなものばかりだ。 たとえば、すてきなみどり色をした建物があったり、コアラみたいな形をした雲が浮かんでいたり、君に似合いそうな洋服を見つけたとき。はじめての美味しさに出会ったり、あなたのまつ毛が意外にも長いのだと気付いたとき。 どれも、あなたの心の中で瞬間ときめいた、大発見だ。 けれど、言葉にする相手もいなかったり、そんなことを言っても何の意味もないし、そんなことを素直に言う自分がどこか恥ずかしい。そんな言葉にならない判断を無意識でしているうちに、言葉になる前の思いが、雪みたいに溶けていく。 しかし、こういう小さなことを言葉にしてみると、少しだけ、確実に世界は変わる。 別に共感されなくてもいい。 自分が感じたことをただ、何か表現してみる。 自分が何かを感じていることを実感する。 途端に立ち現れる、感覚。 わたしは他人のこうした部分を知るのが好きだ。 その人がなににどう感じるのか、どうでもいいことほど、聞きたく
政美 森田
10月15日読了時間: 2分


レプリカ
わたしは最近、自分の中にある衝動的な何かの正体をずっと考えている。 自分の中には「言葉にしちゃいけない領域」がある。「言葉にできない」と言った方がふさわしいだろうか。 きっと、この世界の何割の人かは、その感覚をなんとなく共有できていると思う。 結局、言葉は無限なようで有限。だから、どんなにこだわったとしても表現が限られてしまう。 そしてそもそも、それらは「言葉」として出力すると、破綻してしまう性質のもので、もっとふわふわとしていたり、尖ったものだったりする。だからと言って形になるわけでもないし、それはそれでしかない。それ以外ということはない。そんなものを言葉にしたとき、途端に偽物になってしまう。それはそうではないんだと。 だから「言葉にできない」と同時に「言葉にしちゃいけない」。 言い換えるなら自分という存在を、また別のもので象られたような感じだろう。象られたものは、「象られたもの」であるだけで、本質的には全く違う。 本物とレプリカや贋作のようなイメージが近いのだろうか。 本物は本物にこそ意味があり、そこで使われた言葉は本当ではない。...
政美 森田
10月14日読了時間: 2分


ラブレター
そちらの方が正しいとわかっていても、それを選べない。 そちらの方が幸せなのだろうとわかっていても、本当にそうは思えない。 なにかに、抗いたいわけじゃない。 ただ、自分の心がどうしてもそちらへ惹きつけられる。 どうしようもなく、心がそちらへ向いてしまう。 もちろん、危機感もある。 これでは生きていかれぬと。未来志向ではないと。 激しく傷ついて、ボロボロになってしまうかもしれない。 それがずっと違和感だった。 なぜボロボロになってはいけないのかと。 本能の響くものに従えれば、どうなっても構わないじゃないか。 ひとびとと生きすぎて、共感していくうちに、幻想的なゴールが見えてしまっているんだ。 周りがずっと遠くのなんだか典型的な「豊かさ」を見据えているときに、わたしはその事実だけを見ている。 その事実の奥に見ている、他人には見えない思いが、わたしにとっての最大の「豊かさ」だ。 それは周りに「不幸そうだね」と言われる。 それでも、それでも私は選び続けるし、選び続けたい。 どのような人であっても、愛する人と共に生き、 どのようなことであっても、したいことをし
政美 森田
10月13日読了時間: 2分


休みかたを知る。
今日は「熟睡の日」らしい。 みなさんは、日頃きちんと休めていますか。 この歳になると、よく眠れていないことに悩む人や、馬車馬のように働いたりして、休むことを忘れる人などが周りにちらほら出てくる。 休むのを忘れるほど働くことができるのは、良いことだ。 しかし、人として生きるにはある程度、休むことを覚えるのも大事だったりする。 「休む」というのは、身体はもちろんだが、心持ちがかなり大事なように思う。 つまり休みをとっていても「休みの心持ち」でなければ、うまく休めない。 逆に仕事をしていても「休みの心持ち」があれば、休めている。 究極に理想的なのは、仕事中であっても、休みの日でも「休みの心持ち」があることだ。「休めている」が何かということは、人のそれぞれの持ちようなのだけれど、多くの人はリラックスしている状態や、心残りのない緊張感や刺激があるということだろう。 ただ、いつも予想できないことが起こる仕事や、何かに追われるような仕事、重労働をしている人、苦手なことをしている人というのは、なかなか休み気分でというのは難しいのかもしれない。 だから、そういう人
政美 森田
10月9日読了時間: 2分


ニットを着るということ
だんだんと秋らしい気候になってきた。 それと共に、街の人たちの服の袖や丈も長くなり、葉も順に色づいてきた。 一般的には衣替えのようなものがあるのかもしれないが、我が家ではそんなはっきりしたものはない。 長袖を着るタイミングで一枚取り出し、洗濯をして、戻すときにクローゼットにいっぱいある半袖を順次取り出して、長袖をいれるスペースを作る。 そうして今日はニットを取り出した。 秋服はニットが心地良い。すぽっと着やすいし、厚みのある生地が暖かく包んでくれるのは安心する。 ただ、着て外へ出て、毛玉がたくさん生まれていたことに気がつく。 ニットはこれだから。 毛玉ができても、何も不都合はないのだけれど、オシャレ好きの友人に言われて、去年から意識するようになった。そのせいで、毛玉ができている自分に最悪感を感じるようになってしまった。 だから、こっそり毛玉をむしる。赤いニットにグレーの毛玉が、いくつもついていた。 仕事をしながら、家に帰って毛玉を取ることを考えてみる。 思えば服の毛玉をむしる以外の方法でとったことがないので、どうやってとればいいのだろうと考えてみ
政美 森田
10月7日読了時間: 2分
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