自分の持つ道具
- 政美 森田
- 10月6日
- 読了時間: 2分
世の中の流行なのか、同世代特有のものなのか「自分を知る」ことに対して深く興味を持っている人が増えてきたように思う。
これは人が社会で生きていく中で、けっこう必要な過程だったりする。
自分を体系的に観たり、自分にはある一定のパターンがあると知っていれば、自分が生きにくい、つらい、苦しいと思っていることを避けることができて、もっと生きやすい選択肢を見つけられる。と同時に、自分が得意な部分を予測して飛び込むことが出来るし、実際うまくいきやすいようだ。
これは自己否定からの解放でもある。あなた自体は何も悪くない。
今が辛いと感じているのなら、例えば、あなたは気づかずにバトミントンのラケットで、テニスボールを打ち返しているようなものじゃなかろうか。形は少し似ているかもしれないけれど、全然違う。
いつもうまく打ち返せないのは、持っている道具が違うから。
相手がテニスのラケットを持っていたら、勝ち目などない。だから一旦、自分が持っているものをちゃんと確認すること。そして、それがバトミントンのラケットなのだとわかってはじめて、あなたはテニスボールではなく、シャトルを打ち返すべきなのだと気がつける。そうして、自分はバトミントンをやればいいのだと、決めることができる。
ただ、それぞれ天性のものとして、もしくは育ってきた過程で持たされる道具が違う。それは目には見えない。実際に何かをやってみて、そこで感じたこと、考えたこと、それらの集積によって、だんだんと道具の姿が鮮明になる。自分が持っている道具がわかったら、何をすれば良いのか、その使い方を学んだり練習をすればいい。
そういう風にして、人は生きやすい道を選んでいくことができる。
ただ、わたし個人としては、左手にバトミントンのラケットを持っていたとしても、このラケットでテニスボールを打ち返したい。
生きやすさよりも、その事実だけで十分、むしろ重要だと思ったりもする。
今日も読んでいただき、ありがとうございました。
この結論になってしまうことも、どうやら体系的な私の一部らしいです。
また、まどろみの中で会いましょう。







コメント