無駄から生まれるもの
- 政美 森田
- 11月5日
- 読了時間: 2分
更新日:11月5日
効率化、効率化。
どこへ行っても、その言葉を聞く。
どうやらこの世界は、できるだけ無駄をなくそうとしているらしい。
AIが文章を書き、機械が暮らしを読み、仕事の流れもどんどん最短になっていく。
でも考えてみれば、人間はそもそも、“遠回りする生き物”だったのではないか。
原始のころ、人はお腹を満たすために狩りをした。
けれど、腹が満たされただけでは終わらず「もっと楽にできないか」と考えた。
火を見つけ、道具を作り、言葉を覚えた。
どれも、生きるための無駄な寄り道だったのかもしれない。
けれどその寄り道が、文化をつくり、芸術を生んだ。
効率化の先にあるのは、生存。
無駄の先にあるのは、表現。
効率を極めれば、正確な結果はすぐに出せる。
けれど、そこに思考の余白や偶然の出会いは残っているだろうか。
文章を書くときも、人と話すときも、無駄な時間の中にこそ、発酵するようにゆっくりと育つものがある。
たとえば、誰かと何気ない話をしているとき。
「それ、ネットで調べたら早いよ」と思う一方で、相手の声のトーンや、ちょっとした言葉の選び方に、その人の世界の見え方が滲むことがある。
それは検索では出てこない、あたたかな情報だ。
わたしたちは、そういうことにいちいち感動したり、してしまうんだ。
数値で測れない時間。
効率では説明できない感情。
そういうものを、私たちは無駄だと呼んでしまうけれど、ほんとうは、無駄の中にしか「人間らしさ」は残っていないのかもしれない。
文明が進むたびに、人は効率を手に入れ、そのたびに「余白」を失ってきた。
でも、人類の進化は直線ではなく、ぐるぐると渦を描くように進んできたように思う。
つまり、遠回りこそが進化の形なのだ。
だから、無駄は「退化」ではなく「進化の原動力」。
もしこの先、AIがすべての最短ルートを見つけても、人間はきっと、わざわざ遠回りをする。
そこに、歌をつくり、物語を描き、誰かと手をつなぐ。
無駄は、私たちが人間であり続けるための本能なのだ。
今日も読んでいただき、ありがとうございます。
バランスよく信じていきたいですね。
また、まどろみの中で会いましょう。







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