ニットを着るということ
- 政美 森田
- 10月7日
- 読了時間: 2分
だんだんと秋らしい気候になってきた。
それと共に、街の人たちの服の袖や丈も長くなり、葉も順に色づいてきた。
一般的には衣替えのようなものがあるのかもしれないが、我が家ではそんなはっきりしたものはない。
長袖を着るタイミングで一枚取り出し、洗濯をして、戻すときにクローゼットにいっぱいある半袖を順次取り出して、長袖をいれるスペースを作る。
そうして今日はニットを取り出した。
秋服はニットが心地良い。すぽっと着やすいし、厚みのある生地が暖かく包んでくれるのは安心する。
ただ、着て外へ出て、毛玉がたくさん生まれていたことに気がつく。
ニットはこれだから。
毛玉ができても、何も不都合はないのだけれど、オシャレ好きの友人に言われて、去年から意識するようになった。そのせいで、毛玉ができている自分に最悪感を感じるようになってしまった。
だから、こっそり毛玉をむしる。赤いニットにグレーの毛玉が、いくつもついていた。
仕事をしながら、家に帰って毛玉を取ることを考えてみる。
思えば服の毛玉をむしる以外の方法でとったことがないので、どうやってとればいいのだろうと考えてみる。なんだって、むしるのは良くないとわかる。
毛玉取り機があるのはなんとなくわかるが、この面積を取るのにどのくらいの時間がかかるのだろう。そもそもそんなもの家にあっただろうか。
もうハサミで切ってしまおうか。ハサミなら、むしるよりかはいい気がする。
もういっそのこと毛玉なんか気にしなくていいんじゃないかとも思う。
ただ、もう、20代後半。
そこそこ大人になって、きちんと身なりを気にしなきゃいけない年齢になってきた。
もちろん、人は何を着るかではなく、何を成すかであるのだが「毛玉のある服を来ている大人」はたぶんきっと、ダサい。
ダサいと言われることは、別に良い。
ダサくたって、自分は失われない。
けれど、かっこいい自分でいることは、ダサい自分よりも、もっと自分のためになる。
毛玉をとることから、はじめる秋。
今日も読んでいただき、ありがとうございます。
自分のためにかっこよさを磨いていきたいですね。
またまどろみの中で会いましょう。







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