やすくんの瞳
- 政美 森田
- 9月18日
- 読了時間: 2分
わたしは、人の目を見るのが好きだ。
だから、たまに見つめすぎて「何だい?」みたいな顔をされることがあるし、言われもする。
けれど、別になんでもない。
見つめることに用がある。
ただ、あまりにもかわいい人やかっこいい人、瞳の大きくて目力が強い人は少し緊張してしまうから、見つめるのに適しているのは、ぼんやりした瞳を持った人。
わたしに見つめることの面白さを教えてくれたのは、高校生のときに出会った、やすくんだ。
やすくんは、話す時、わたしの目をじっと見つめた。
重たい一重の、小さな瞳で。
やすくんは背こそ高かったものの、全体的にまるっとした雰囲気で、ぼんやりした瞳を持っていたから、とても良かったのだろう。
それまで、話しているときに、こんなに目を見つめる人を見たことがなかった。
その頃のわたしは人と目を合わせることを、意識的に避けていた。なんだか、人と見つめ合うのは怖かった。見つめ合ったという事実に、なんともいえない歯がゆさを感じていた。鏡の中の自分に見つめられるのさえ、不安だった。
やすくんは人を見つめるとき、目をまんまるにして見開いた。
彼としてはぱっちり目を開けているつもりなのだろうけど、それでもそんなに大きくはならない。小さな楕円。普通のゴマ粒が、いいゴマ粒になったくらいの。
自分より大きな身体をしているはずなのに、いつも生まれたばかりの子犬みたいだった。もしかしたら一重をコンプレックスに感じて、目を見開くクセがついていたのかもしれない。
どちらにせよ、その姿はなんだか面白かったし、あんまり見つめられているという気がしなかったから、わたしもすんなりと受け入れられた。
だからあるとき、やすくんに、なぜそんなにしっかりと見つめるのを聞いてみた。
やすくんは心理学かなにかの効果みたいなことを言っていた気がする。理由はもうはっきりと覚えていないけど、そのとき、見つめることに面白さを感じた。「見つめることにそんなに理由を持っている人がいるなんて!」と思った。
そこから、人の目を見つめることが好きになった。
ただ、わたしは人を見つめるなかで、効果云々よりもそれぞれの瞳がきれいだということを知った。
やすくんの瞳も、きっときれいだった。
それぞれの瞳には言葉にしちゃいけない美しさがあると思う。
今日も読んでいただき、ありがとうございます。
わたしの瞳は他の人よりちょっとばかし茶色なんです。
また、まどろみの中で会いましょう。







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