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甘えられる人、頼る人

甘えられる人と、頼る人。

この二つは似ているようで、はっきりと線が引かれている。


多くの人は甘えることができない。

そもそも人は最初から甘えることができなかった。

赤子は、自分で意識して甘えなどしない。親が子を甘やかす。そういう受動的な甘やかしをただ受け入れる。人は生まれ持って甘える力を持ってない。


しかし、成長すれば自分の足で立って歩けるようになる。自分で言葉を話し、泣かずとも、意思を伝えられるようになる。そうすれば親も子を甘やかさなくなり、甘えられる関係が終わる。


けれど、人は甘えられる存在をどこかで求めている。

強い人も、弱い人も、独りで生きているような人も。

幼い頃のあたたかい記憶がそうさせているのだろう。


だけれど、大人になったわたしたちには、もう赤子のように無条件に甘やかしてくれる人は、いない。また、人に出会い、別れていく中で、もうあのときのように他人を無条件に信じ、甘えることができない。

あのときはただ、目の前の人を信じるしか生きる術がなかったわたしたちは、もう人を信じなくても生きていけるし、甘えなくても生きていける。


だから、代わりに誰かを頼る。

これはひとつのスキルなのだと思う。

頼るというのは、相手の役割を理解し、その役割に意味を持たせること。

自分ではできないことを、相手が代わりにやる、その構造を互いに受け入れるのが「頼る」という行為だ。

それはどこか合理的で、整った仕組みの中に自分を置くことでもある。

そこに、相手を信じることなど必要がない。

わたしたちはそのバスの運転手さんを信じているから、安心してバスに乗るわけではない。交通システムの中にある、バスの運転手さんという役割を頼っているだけなのである。


一方、大人の「甘え」には相手が誰であるかが大事だ。

それは甘えが生きる上で必ずしも必要なものではないし、とても自分勝手なものだからだ。

整合性や、道筋なんて必要ない。ただ、弱さを弱いままにしておくこと。

甘える人はただ、唐突に降る雨のようなものだ。


だからこそ説明も理由もなく、都合をまるごと受け止めてくれる存在でなければいけない。

それはどんなに良識ある人間かということでも、頭が良いとか、顔や見た目がタイプだとかではない。

わたしたちの中にある柔らかな部分を互いに少しずつ通わせていって、はじめて触れあうことができるものなのだろう。


そして不思議なことに、そういう人にはこちらも「甘えてほしい」と思える。

大人の甘えることは、実際には一方的ではなく、双方的な営みであるのかもしれない。


そんな存在がひとりでもいると、人生はずっと軽くなる。

頼るのではなく、甘えられる人。


きっと、それは大げさではなく、生きるうえでの救いであり、醍醐味のひとつなんだろう。


今日も読んでいただき、ありがとうございます。

お母さんもどこか子どもに甘えていたのかも。

またまどろみの中で会いましょう。




 
 
 

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