弱くあること
- 政美 森田
- 1月24日
- 読了時間: 2分
ある人にとって、弱くあることは、強くあること以上に難しい。
私たちは誰だって、誰かに認められたいという気持ちがある。
誰かに褒められたくて、一緒にいたくて、頑張って認めてもらえる。
自分にだって、自分はこれくらいできるんだぞ、という風に自信を持つように成長していく。
だけれど、弱さを見せるというのは、そうやって周りの人や自分に対して硬くしてきた壁のようなものに穴を開けてしまうこと。それまでのすべての努力が崩れてしまうような怖さがある。だから自分に対しても、その弱さを見せずに「こう考えれば、人生大丈夫だから」そういう、なんか強くいられる言葉をいつでもポケットに忍ばせていたりして、思い込もうという部分がたくさんあった。
しかし、先日ふとした瞬間に知り合いの一人にぽろっと弱い部分をこぼしてしまった。ずっとモットーにしていた言葉が、実は気持ちの面では受け入れてはいなかったのがそのときに分かった。
いろんな面で限界に来ていたのかもしれない。強くあることに慣れてしまって、自分でも弱い自分の姿をしばらく見ていなかったし、自分が不出来なだけで、もっと周りの人はやっているんだから頑張らなくちゃと、自分に対してかなり辛く当たっていた。
でもその人は、私がこぼしたその言葉を否定するわけでもなく、もちろん肯定するわけでもなく、ただ状況として受け取り、理解をしてくれた。同じことでずっとぐるぐるしていることを、急かさずに気が済むまで聞いてくれた。もうどうすれば良いか分かっている話だし、その人だってそんなことで悩んだって仕方ないと思っていたかもしれない。でも、話の解決ではなく、こんな弱い自分がこの世界に存在し、話を聞いてくれる人がいた。そのことが嬉しかったのだ。
話し終わった後に、改めて自分ってこんなことを思っていたんだと気づいたし、その人はそんな自分に対して「もっと聞かせてほしい」という風に言ってくれた。その安心感のおかげで、少し自分のために生きることや、私の中の人生豊かさについて見つめ直せたような気がする。少しだけ自分というものの在処がわかった。
弱い自分を見せることは決して硬い壁を壊すことじゃない。
受け入れてくれる誰かを通す扉を作ることなのだ。







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