「痛み」から生まれる
- 政美 森田
- 9月24日
- 読了時間: 2分
何かをつくろうと思ったとき「痛み」の感覚が、その原動力になる。
この間、ある作り手の友人と話していて『痛み』や『つらさ』を感じたとき、それが制作の動機になっているよね、という話をした。
たしかに、自分がなにかを作ること、表現をすることは、そうした負の感情に対する課題解決の手段だったりもするのだろう。
逆に生活が満たされている中での制作活動を考えてみる。すると、その理由には明確な目的や役割があるのだろうと思った。頼られることだったり、誰かの役に立ったり、外部的からの反応による使命感や責任感から、創造の意欲が沸いたりする。
よくよく考えてみると、負の感情から起こる制作活動も、目的による一種の活動なのかもしれない。
ただ、それは誰にも頼まれることなく、誰かに対する貢献心も大義もない。
どちらかといえば、誰かを傷つけてしまう類のものかもしれない。そして、とても個人的な目的だ。それで満たされるとは限らないが、なにか形にしたい。何か感情の揺れの証を残すためなのか。はっきりとは明言できないけれど、そうしたものをひっくるめて「制作意欲」と言ったりする。
だから、作り手は常に何かに対して「不満」や「怒り」を感じているような人なのかもしれない。
もちろん、性格が怒りっぽいということではないけれど、いつも何かを不思議に思っていて、許せないものがある。
「なぜ自分にはこれができないのか」という自分への怒りから生まれる向上心かもしれないし、「なぜこの世にはこうしたものがないのか」という発見からの怒りかもしれない。知らなければ幸せに生きれたものを、知ってしまったゆえ、もう見逃すことができなくなってしまったのかもしれない。
だから悲しくも辛くもなるし、それによって痛みが生じる。
そんな後ろ向きな思いを抱きつつ、その怒りをどうにかこうにか形にする。
その怒りに共感した人がその作品を「いい」と思ったりする。怒りで通じ合う。
きっと個人的な制作というのは、そういうものだったりするんじゃないだろうか。
今日も読んでいただき、ありがとうございます。
ときどきつらい経験をしたとき、同時にありがたいって思う自分がいたりします。
また、まどろみのなかで会いましょう。







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