言葉への諦め、そして希望
- 政美 森田
- 7月23日
- 読了時間: 2分
更新日:7月24日
言葉というのは、多くの人が使う割に難しい。
伝えるための一番有効な手段であるはずなのだが、伝わり方というのは十人十色だし、その中で自分がどうした文脈でどんな言葉を紡ぐのかということを選択するのは一つの責任がある。そして受け取り手も、何か返答をする際には、言葉を紡ぐため、相手の言葉を深く理解しようとする責任がある。
しかし、そんなに気を使っても、やっぱり生きてきた環境、出会った人々が違えば、持つ言葉の性質も違うし、受け取る言葉の性質も違う。私が言った「赤」はあなたにとっての「ピンク」かもしれないし、私がいう「楽しい」はあなたにとっての「かなしい」かもしれない。
そういう意味で人は他人のことを本当に知ることなど、絶対に不可能なのだ。
どんなに長年連れ添った夫婦でも、そっくりな双子だったとしても、違う人間の血が通い、違う存在だという当たり前の事実は変えられない。自分の意識も思想も、相手の中にはない、私だけのものだ。
だから、あなたは本当の意味で誰にも理解されないし、誰かを理解しようとしたところで、あなたの理解の仕方は常にあなたが持つフィルターによって常に色付けられている。例えば映画『メッセージ』のときのように、相手の言語を一から学ぶことから始めねばならない。それでも完全には理解できないのだ。
それでも私たちは、今日も言葉を使う。
うまく伝わらないかもしれないと知りながら、それでも言葉にしようとする。
相手を理解したいと願いながら、自分を理解されたいと思いながら。
届かないかもしれないけれど、届くかもしれないと願いながら、私たちは伝えることを、伝えられることを、絶えず繰り返していくのだ。
今日も読んでいただきありがとうございます。
言葉を紡ぐほど言葉に絶望し、それでも希望があるのではないかと、そのわずかな兆しを追いかける。
また、まどろみのなかで会いましょう。







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