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文学の危険

更新日:8月3日

言葉を扱うというのは、思想を扱うことでもある。

言葉への探究心は、思想を知ろうとすることでもある。

だから、自分の中でいろんな人の考えがごちゃまぜになったり、その考えが部分的に憑依されたりして、ときどき言葉を扱うことの危険さを感じる。


特に人の書いた読み物なんかを読む時には、きっと俳優さんが役作りをするように、しばらくは出てきた登場人物に依った言動をしてしまう。多くは現代・近代の純文学を読むので、死生観や思い詰めるような話、思考を巡らせるような話もあったり、一般的に言ってクズっぽい人もたくさん出てくる。

読み物で思想は豊かになりながらも、文学的な登場人物たちによって、倫理観も道徳観も心の中ではとっくに崩れてしまっているのかもしれない。私にとって、ある筋に適っているのなら、人の所有物に手を出すことも容易いし、誰かを傷つけることだって厭わない。本当の意味で、そこに罪悪感を持つことはないのだと思う。それは私だけではなく、もしかしたら多くの人が思っていることなのかもしれない。そう願いたい気持ちもある。


そして、それをある程度矯正し救ってくれているのは、今身近で関わってくれている人たちだ。

私は、一人では生きることはできない。

自分の中にあまりにもたくさんの思想があって、どう生きて良いのかわからない。どう死ぬべきかなのかもわからない。全て正しい選択のような気もするし、全て間違っているような気もする。思考の紛争に決着が付けられず、結局どちらも殺すことが一番の正解のような気もする。でも別にそれが悪だとも思わないし、そこに自分の意思は介在しない。私の意思というものはどこかにあるけれど、どこにもない。

なぜなら、文学ではどうしたいかや、善良か否かではなく、それならばどうか、どうあるべきかだ。そんな風に感情も生死も全て理論的に考えられたりもする。この世界で理論を崩して、自分の気持ちに生きるのは、一種の逃げであり、不整合だ。起承転結があり、因果応報で、いつだってそこには理由がある。文学というのは数学や物理に非常に似ているのかもしれない。


だから、生きている人の言葉には、自分はこうしたいとか、こうありたいだとか、こうしてほしいだとか、生き方について語ってくれる人が多い。そして、当たり前の倫理観を当たり前のように語ってくれる。それがとても安心するし、生きる理由がある人の言葉は、こう生きれば良いのかという具体例になってくれる。

生きる理由がある人の言葉は、私をその世界から引き剥がして現実の秩序の中に落とし込んでくれる。




 
 
 

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