心を翻訳するということ
- 政美 森田
- 2月7日
- 読了時間: 2分
更新日:2月8日
言葉は、はっきりしているように見えて、実はとても曖昧なものだ。
「目の前に椅子がある。」
これを読んでいるあなたは、どんなことを思い浮かべるだろうか。
「目の前に一脚の白い椅子がある。」
次はどうだろう。先ほどの想像とは少し変わっているだろうか。
「朝起きると、目の前に一脚の白い椅子があった。」
少し付け加えてみると、また違った印象になる。
こんな風に言葉というのは付け加えれば付け加えるほど詳しく語ることができるし、それによってより近いものを伝えることができる。しかし、これは「近い」であり「同じ」ではない。
言葉は何かを伝えようとすることはできてもそれを完璧な形で再現することができない。なぜなら、私たちが持つ言葉というのは一つも同じではないからだ。同じ「椅子」でも今までどんな椅子を見てきたか、その経験が違う以上、同じになることは不可能だ。
それは翻訳の作業にも近い。翻訳家の柴田元幸さんも、いつか講演で自身の仕事について「絶対に100%にはならない、でも限りなく100%に近づけようとするのが翻訳である」と語っている。
これが「椅子」のような目に見えるものであれば、絵を描けばいい。しかし、目に見えない、人の心や感情を伝える時、この難易度はぐっと上がる。なにせ、「気持ち」という自分にも見えないことを言葉にする時点でそれは一度目の翻訳であり、本物の姿を失うということである。そして、それを相手に伝えるのだから、さらに翻訳されてしまう。たとえていうならば、日本語を英語に翻訳し、それをベトナム語とかに翻訳する。そのくらい伝えるのが難しい。
そしてそういう時に限って「悲しい」「愛してる」とか簡単な言葉にしかならない。今持っている言葉では伝えきれないのだ。
それでも、私たちは相手に自分の気持ちを知ってほしいと思うし、逆に相手の気持ちを知りたいとも思う。そのために言葉で確認したがる。相手の言葉の意味がわからないところから。そんな簡単ではない翻訳の連続の中で、やっと少しだけ相手の言語を理解していく。







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