寛容な人々
- 政美 森田
- 6月17日
- 読了時間: 2分
ここ最近は、間違いに対する寛容さというものが広がってきているように思う。
インターネットやその他科学の進歩によって、発信方法が簡易で便利になった影響は大きい。けれどそのことにより、間違いも圧倒的に増えてしまっている。
例えば、文章の誤字だったり、読み間違い、デマが流行ることなど。
もちろん、昔はそうではなかったかと言われれば、決してそうとも言い切れない。
例えば、伝聞による曖昧な情報の流布や、いいかげんなテレビが間違った報道をするということは、私が生まれる前からあった。
「納豆ダイエット」というとピンとくる人もいるだろう。
けれど本来「文字に起こして発信する」ということはかなりシビアに行われてきた。
紙媒体で小説や雑誌を作るときには、それぞれに編集者がいて、あらゆる確認を行った上で、最後に校正者がいたりと、一つの情報に対して関わる人が多かった。
そもそも紙媒体において、個人が発信するというのは技術的な面で難しいところもあった。
しかし、現在多くの人が発信者側に移っている。だから昔のやり方をお堅く守っているのは、大企業やそれにシビアに向き合う人くらいのもので、それ以外のほとんどの人が、自分の知識やAIなどを駆使しながら、好き勝手にやっている。私もその一人だ。
だからそのぶん、情報に間違いが生じてしまう。
そしてそれがあまりにも多すぎるので、人はその誤字・誤植を気にしなくなる。寛容になった結果「慣用読み」のように、間違いを正しいものにしていく方向が生まれていることも多分にある。
この動きが進んでいくと「文化の違い」が地域という枠組み以外の文脈で、より増えていく。「雑多な時代」が到来する。
かつては思想も言論もずいぶん統制されてきた。
しかし「自由であるべきだ」ということで寛容になり、それぞれが思想や言論を持つようになった。
そして、これからは「情報の自由」の時代がやってくる。
それは表現の自由が少し進化しただけのように思うが、言語の崩壊を進めてしまい、便利どころが逆に不便な状況を作る。
選択肢が多いというのは自由で便利だが、行き過ぎると不便になる。
日本語が崩れた結果、日本人同士でも話すことができない。
そんな時代が来ないように、守るべき間違いは、ある程度正していくことが求められるのかもしれない。







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