好きを取り戻す
- 政美 森田
- 8月14日
- 読了時間: 2分
なにかをするとき、純粋に自分が「好き」「やりたい」と思いながらできているだろうか。
最初は好きだったはずのものも、気がつけば「誰かの役に立ちたいから」や「周りからの評価をもらいたいから」など、他者から認められることありきのものになってしまうことがある。
そうして、本当に好きだった気持ちが薄れてしまったり、他に魅力を感じるものがあっても人の役に立たないから」、「評価されないから」と理由をつけて手を伸ばせない自分がいる。
私でいえば、書くことはその中間みたいな存在だ。
これで人の役に立ってきたと思いながら、言葉にすることを止められない自分の欲求がある。それは他人に見てほしいというよりも、言葉や社会への探究心であったり、自分への探究心を言葉という冒険の中でやっているということだったりする。
役に立たなくたって何かしらを書き続けているだろうし、役立てるから書き続けることを選んでいる、という両側面ある。
もちろん他人からの評価は一つのモチベーションにもなるし、そうやって自分の価値基準が形成されていく。世の中が「人の役に立ちたい」という人で溢れたなら、少しくらいは幸せな世の中になるのかもしれない。
でも、それはあくまで結果にすぎない。本当に必要なのは、自分が自分を満たす感覚。地に足のついた自信だ。
他者からの反応を頼りにせず、自分が自分を評価すること。
他人への評価はあくまで、自分の価値を形成する際の教材にしかならない。
そうして第一に、あなたは生き物なのだから、ほんとうは生きているだけで十分なのだ。
悲しいことに人間社会はそう評価してくれないけれど、自分だけはそう信じていてほしい。
そのうえで、自分なりの豊かさや、より良い人間であろうとする努力を重ねていけたら、「好き」という気持ちは、きっとまた自分のもとへ帰ってくる。
かくいう私も、自分に自信があるわけではないし、書くこと以外に自分自身が生きている意味など、あまり感じない。人に迷惑をかけてきた過去を考えれば、もっと慎ましく生きるべきだと思うし、他のことにはめっきり他人の評価に依存している。結局、他者のためにしか生きられていないし、他者の目線でしか自分を計ることができない。
だからこそ、そういう自分を言葉で自覚し、なんとかそこから抜け出そうともがく。私にとって書くことは自分を捉えるための手段でもあり、そして少しだけでも、自分を好きになるための練習なのだ。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
またまどろみの中で会いましょう。







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