一緒に生きること
- 政美 森田
- 8月11日
- 読了時間: 2分
更新日:8月14日
「死ぬのが恐いから飼わないなんて、言わないで欲しい。」
最近、飼っていた熱帯魚がなくなってしまって、思い出したのがこのコピーだ。
これは児島令子さんによる、日本ペットフードの広告の言葉だ。
おうちを汚すから飼わないというなら、 犬はお行儀を身につけることができる。 留守がちだから飼わないというなら、 犬はけなげにも、孤独と向き合おうと努力するかもしれない。 貧乏だから飼わないというなら、 犬はきっといっしょに貧乏を楽しんでくれる。 だけど・・・死ぬのがこわいからと言われたら、 犬はもうお手上げだ。すべての犬は、永遠じゃない。 いつかはいなくなる。でもそれまでは、 すごく生きている。すごく生きているよ。 だぶん今日も、日本中の犬たちはすごく生きていて、 飼い主たちは、大変であつくるしくって、 幸せな時間を共有しているはず。 飼いたいけど飼わないという人がいたら、 伝えて欲しい。犬たちは、 あなたを悲しませるためにやっては来ない。 あなたを微笑ませるためだけにやってくるのだと。 どこかの神様から、ムクムクしたあったかい命を 預かってみるのは、人に与えられた、 素朴であって高尚な楽しみでありますよと (日本ペットフード 2004)
今まで何度もペットを飼ってきたが、そのたびにやっぱり悲しいし、どんなに長生きしても自分を責めてしまう。
もっと何かできたのではないか。
もっと幸せにしてあげられたんじゃないか。
自分のところに迎え入れてしまったのは間違いなのではないか、と。
昔から、別れの場面が得意ではなかった。
もちろん得意な人はいないと思うが、私はその受け止め方が器用ではない。
だからこそ、できるだけ手放さない方法を選んできたし、自分から離れることを人生の中で選択することができなかった。
けれど、生きているものは必ず死ぬし、私にはそれを止める力はない。
だから、結局のところそんなことを憂いても仕方がない。
自分だって同じようなもので、それでも両親は私を産むことを選んだし、今一緒にいる人だって、これからもずっと一緒にいるとは限らないけれど、それでも共に生きている。
結局のところペットを飼うのも、誰かと生きるのも、自分が幸せになりたいからであるし、誰かを幸せにしたいからだ。
その先に別れがあったとしても、その日々で確かに私は幸せになっていた。
児島令子さんのコピーは、そういう一時的な悲しみをやわらげ、本当に願っていたことを思い出させてくれる。







コメント