アルミ缶の上に、あるミカン
- 政美 森田
- 6月25日
- 読了時間: 2分
私もそうなのだが、言葉を扱う人って、ダジャレが結構好きだったりする。
たまにコピーライターのエッセイやSNSを見るのだが、文章やコメントの中にいちいちダジャレを入れたりする。
そして、だいたいダジャレというのは言っている側はちょっと自慢げになっている。しかしもう一方は...。やめておこう。これ以上は自虐になってしまう。
気を取り直して、実はダジャレというのは、昔から文学でも取り扱われている。外国文学でも、特に物事を隠すために、似ている言葉や同じ音の言葉を使ったりする。木を隠すなら森の中、言葉を隠すなら言葉の中、ということだ。
だから言葉を扱う人は、ダジャレを馬鹿にしちゃいけない。
実はかつてから使われている、ものすごい発想法であり、表現方法なのだ。
また、とくに日本語を使っているわれわれには、英語圏にはない、われわれだけの固有のダジャレがある。日本語の表現の数が膨大なのは周知の通り、和製英語というものがあったり、英語の言葉だってある程度使われているから、さらに言葉の数は増えていく。
そう、日本はたくさんのダジャレを生み出せる可能性を持つ国なのだ。
それはつまり、日本のコピーライターは、ほかの国のコピーライターよりも、資源がとても豊かだということ。
そんな豊かな資源を持つ日本のコピーライターの可能性は、きっとまだまだあるのだろう。
私も、一生に一度は素敵なコピーが書けたらいいなと夢見ている。
今日も読んでいただいてありがとうございます。
だけども、ダジャレはほどほどに。
また、まどろみの中で会いましょう。







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