わかっているけれど
- 政美 森田
- 7月16日
- 読了時間: 3分
わかっているけれど、わからないこと。
理解したいのに、自分にはどうしても理解できないことがある。
「わかる」と言い切ると嘘のような気がして。
でもわからなければ、結果的に誰かを傷つけてしまう。
わかりたいという気持ちはあるのに。そうやって考えられたら、随分楽に生きられるのにな、と思いながら、本当に理解できないことがある。
それは全て、自分自身が過ごした時間や、出会ってきた人たち、心を動かされた出来事、向き合った数やその性質による。だから、自分が何かに囚われているとしたのなら、きっとそれは過去にある。
私自身のことを言えば、大きな選択をするとき、いつも誰かと一緒だった。
特に、自分がそのとき親しかった人に、大きく影響を受けている。
進学する理由も、親しい友達が行くと言ったから。
親しい人が変わり、美大生なのに文章や言葉にこだわりを持つのは、当時の尊敬していた先生が文学に熱心だったから。もちろん、私はその前から文芸をやっていた。でもその文芸をやりはじめた理由というのも、文学になんか興味はなくて、なんだか面白そうな先輩がいたから。
私の人生において、自分のやることと自分の相性など、正直どうでもいい。
それよりも、誰とやるかというほうが大切なのだ。だから今まで、何かを1人で成し遂げたことはないし、自分のやっていることのその先には、いつも誰かの存在がある。
だからこそ「どうして文章を書くのか」と聞かれると、とても困ってしまう。私は、近くにいる誰かが私の言葉を認めてくれるから、書いてきただけだ。
自分で誇れるほどには、認めていない。むしろ自分は今からでもなんにだってなれると思っているし、だからこそ、何にだってなれないような気もしている。
人には好きという感情は持てるけれど、物事に対しての好き嫌いは持っていない。
今だって、ただ書けるから書いている。私を求めてくれる人が近くにいて、その先にいる誰かの役に立てるから。
たまたま求められて続けてきたものが「書く」ということだけだった。
私の何かに対する「好き」は、常に誰かが感じる「好き」であり、その真似っこをしているだけなんだ。
だから私は基本なんでもする。写真も撮るし、デザインもすれば絵も描く。ものづくりもするし、何もしなかったりもする。
文章を書くことと、それらとの間になんら境界線はない。ただ、少しだけ長く続けているだけだ。
だから私には、人のことを好きにならない人の気持ちがよくわからないし、人を無視して物事に没頭する人の感覚も、あまりわからない。
それでも、わかりたいとは思う。
ただ、そのわかりたい気持ちだって、いつも誰かの存在と結びついているだけなのだ。
今日も読んでいただきありがとうございます。
また、まどろみの中で会いましょう。







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