ほんとうの自分さがし
- 政美 森田
- 5月19日
- 読了時間: 3分
なにが「ほんとうの自分」なんだろう。
きっとあなたも漠然とそんな問いを考えたことがあるのではないだろうか。
人は生きているうちで何かしらの役割を担う。
社会に出て働き誰かの役に立ったり、家で家族の面倒を見たり、友達や恋人と過ごす。
そういうふうに誰かと関わって生きていく中で、相手が喜んでいたり、悲しんだりするのを見ると「自分はその人のためにどんなことができるだろう」と、自然と相手の気持ちを考えるようになる。あるいは、自分が相手と一緒に幸せに生きていくために、自分ができることについて考える。それは人にとって当然の生存本能だろう。
しかし、そんなことを繰り返していくうちに、自分の意思とは無関係に自分が行動するようになる。
いいや、はじめは何かきっかけや意思みたいなものがあったはずなんだけれど、どこかのタイミングで道がそれてしまって、その意思が歪んだ形として意識されてしまっているのかもしれない。
たとえば仕事をやっていても、仕事仲間やお客さんのために演じる自分がいて、そういう自分が「ほんとうの自分」なのかと問われれば、それは違うように思ったりもする。それは仕事の目的に合わせた自分で、ほんとうの自分じゃないんだと。
恋人や友達と過ごしても、やはり自分の役目を果たそうとする。恋人でいるため、友達でいるためには、ある程度、自分というものをおさえて生きなければいけないこともある。そうやって人は関係を築いていくし、他人との繋がりというのは何かと信頼関係が根底にあるから、それを壊すようなことはしてはいけないと思ったりする。
では、はじめから決まっている関係______家族はどうかというと、やっぱり家族の一員としての自分であろうとする。親が親でいること、子どもが子どもでいること、その構造・関係自体が役割として与えられ、親は子どもを育て、子どもは親に対してわがままになっていく。それも私たちが家族であることの役割の結果で「ほんとうの自分」ではないのかもしれない。
それならば、一人でいるときの自分はどうだろうか。
たしかに、誰かを気にすることもなく、自由で自分らしくいられているような気がする。けれどそれが「ほんとうの自分」かというと、果たしてそうだろうか。結局それも「自分のために生きている自分」が存在する。
それは「自分のための自分」であっても「ほんとうの自分」ではない。自分のためにほんとうの自分を隠してしまう。ほんとうの自分を認められている人というのは、実はあまり多くない。私だってそうかもしれない。
では立ち返ってみると、そもそも「ほんとうの自分」は存在するのだろうか。
いいや、きっとそんなものこの世界には存在もしないし、正解もない。正確に言えば、あったとしても、誰もそれを知らない。最後には「自分」というもの自体を自身がどう納得させ、認識していくか。
誰も立ち入ったことのない森の中で、道を切り拓くようなものなのだろう。
けれど、問題提起をしておいて、存在しないと結論づけてしまうのもどうかと思うし、せっかくここまで読んでくれている人も拍子抜けしてしまうに違いない。
だから、私なりに結論をつけてみる。
この世界には、いろんな姿のあなたがいるのだろう。
そしてあなたはそれを理解している。あるいは今、これを読んでなんとなくそれを感じている。
そのすべてがきっと「ほんとうのあなた」だし、もし「これは本当の自分じゃないんだ」と感じたなら、その自分は少し見直してみるのがいいのかもしれない。
そうして生きている瞬間の1秒でも多く「ほんとうの自分」と言えるような人生、それがあなたが目指すべきほんとうの道なのではないだろうか。







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