ほんとうのこと、その奥にあるもの
- 政美 森田
- 8月28日
- 読了時間: 3分
刑事ドラマや探偵ドラマが好きでよく観るのだけれど、だいたい最後には「ほんとうのこと」が暴かれる。事実があって、その奥に真実があって、人はそれを知って、泣いたり笑ったりしながら前に進む。いかにも物語的だ。
「真実が人を救う」
なんだか当たり前みたいに語られるけど、現実はきっとそう単純じゃない。知らないままだから、幸せに暮らせる人もいる。むしろ、知らないこと自体が、ひとつのやさしさになっていたりする。
私はほんとうのことを暴き出すのが正義だ、と思っていた。
それはちょうど、小学生の頃にやっていた弁護士ドラマの影響が強く残っている。
ドラマの中で、暴かれた方は最初は戸惑うが、絶対に強くなってラストを迎えていた。
今思うと、それらは暴くことではなく、その真実に立ち向かう姿勢の方を見習うべきだったのだ。
正義というのは、誰かの隠し事を暴くというような、そんなに安直なものではなかった。
隠した人の正義も同時に大切に扱わなければならない。
真実よりも奥にある「誰かの大切」を守るために、あえて口を閉じる、という選択だってあるんだろう。
けれど人は他人の目で世界を見られない。
「相手のため」と思いながら、結局は自分のために動いていることもある。
「誰かの大切」と「自分の大切」というものが、その瞬間、釣り合わないことだってある。
それを思うと、伝えることも、伝えないことも、どちらも少し怖かったりする。
思えば真実なんて、手紙のように軽い。
それを誰に宛てるのか、どんな言葉を添えるのか、あるいは便箋ごと机の引き出しにしまっておくのか。
重さを決めるのは、受け取る人との関係だ。
そして、嘘もまた同じくらい軽い。
でも軽いからこそ、風に舞ってどこかに飛んでいくこともある。
その嘘が、誰かを少し救うこともあれば、逆に傷つけたりもする。
だからこそ、今になって簡単に「真実を語るべきだ」とも「嘘でいい」とも言えない。
ドラマのエンディングは、すっきりしていて気持ちいい。
でも、現実のエンディングは、すっきりなんてしない。
ただ、曖昧なまま、不安なまま、それぞれが日々を続けていく。
もしかしたら「真実」とか「正義」とかいう言葉に、私たちは少し酔わされているのかもしれない。
ほんとうに守るべきものは、もっと手触りのある、やわらかいもの。
たとえば、今日も安心して眠れることとか、自分は愛されているんだと信じられること。
それは明確にすることからへの逃げなのかもしれないけれど、それらが全ての根底なのだと思う。そういうものを、正義だ悪だのような一般論との戦いの中で、見失ってしまう。
真実の向こうにあるのは、いつも「生活」だ。
その生活を壊さないために、わたしたちは今日も、伝えることと、伝えないことのあいだで迷っている。
今日も読んでいただきありがとうございます。
またまどろみの中で会いましょう。







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