はなすこと
- 政美 森田
- 8月13日
- 読了時間: 2分
人と話していると「気づいてほしい」「わかってほしい」というのを感じながら会話していることがある。
そういうときって、気づいて欲しいものがなんなのか、察し合いの会話になってしまって、どこか変な感じがするし、結構疲れたりする。
返事ひとつで、うれしくなったり、がっかりしたり。
だから相手から「そうなんだよ」と言われると、ちゃんとわかってあげられたのだとホッとするし、「違うんだよ」「そうじゃないんだよ」と言われると、なんだか相手がすごく遠くにいるみたいでシュンとしてしまう。
でも、ふつうに暮らしていると、そういう会話はそこらじゅうにある。
スーパーのレジで「袋いりますか?」に「大丈夫です」って答えるときも、
ちょっと「エコな私に気づいてほしい」みたいな気持ちが混ざってたりする。
「それ、前にも話しましたけど…」なんてのは、もう完全に「わかってほしい」のかたまりだ。
そして、自分もそうだ。
ただ話してるつもりなのに、よくよく思えば、「ね?そう思うでしょ?」とか
「その気持ち、わかるよね?」ちょっとしたサインを相手に送ってる。
けれど、ぜんぶに応える必要はなかったりもする。
つらいときは、スルーしてもいい。
それが私なのだ。そういう強い意志が大事だったりもする。
また一方相手の「気づいてほしい」は、自分の「気づき」だったりもする。
だからそれは必ずしも、相手のためなわけじゃない。
そう思うと「気づいてほしい」も、自分を成長させてくれるものだったりするんじゃなかろうか。
そうやって、自分のちょっぴり嫌だなと思う行動をどう自分のためにしていくかというのも、幸せに生きていくコツだったりするんじゃないかと思います。
もちろんやりすぎは犠牲になってしまうから、よくよく考えなければいけないけれど。
今日も読んでいただき、ありがとうございます。
またまどろみの中で会いましょう。







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