きっとみんな、認められたい
- 政美 森田
- 8月20日
- 読了時間: 2分
「認められている」って感覚はけっこう人にとって大事だったりする。
それは仕事でも対人関係でも、趣味や遊びにだってそうかもしれない。
多分、私たちはある種、いろんな場面で認められる喜びを持って生きていたりする。
会社で昇進したり、自分がそのポストに就くことを会社から認められている状態はもちろんそうだろうし、友達と遊ぶときだって「遊ぶ約束をするということは、友達だという証明」だったり。誰かが笑いかけてくれるときなんかは、相手は本当に面白くて笑っているのだろうけど、それを通して、「あなたと一緒にいて楽しい」と認められている気がする。私なんかは植物に水をあげたとき、少しすると葉っぱが上向きになる。これが嬉しいのは、正しく水をあげられていることを「認められている」だからなんじゃないかな、と。
そういう相手の言動から「自分ってなんだか認められているだろうな」と感じて、そこに安心感を持つ。
そういう安心というのが多分、人にとっては必要なんだろうな。
みんながそうかはわからないけれど「そこにいてもいい」って言われているような気がして、私自身はそういうのを敏感に感じ取っていた。
もちろん、他人ではなく自分自身を認めるということもあるが、大抵自分というのは悪い姿が見えていたり、見えない部分を知っているからこそ、不思議と全てが下手くそで不器用に思える。
自分の文章はやっぱりどこかおぼつかないし、自分の撮る写真も何かしっくりこない。周りの人が表面的にみて「いい」と思っても、その内側を知っている自分としては、未完成なのだ。何かを達成したとしても、それまで達成していないことの数を知っている。だから認めるためのハードルがなかなか高かったりする。
これって、他人の評価に依存しているとも言えるのだが、そういうことって、決して悪くないと思う。
人と生きていかなければならないときにこの「認められる感覚」がわかると、自然と自分の役割というのがわかってくるし、生きやすかったりもする。
ただ、ずっと褒められために生きるには、きっと限界があって、いつか褒められた先に待っているものに目を向けなければいけなかったりするんだろう。
今日も読んでいただき、ありがとうございました。
また、まどろみのなかで会いましょう。







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