「手応え」という感覚
- 政美 森田
- 8月27日
- 読了時間: 2分
最近は、ある準備があって、ひたすら工作というか、単純作業をしている。
仕事が終わってから、あるいは朝早起きをして、切ったり、貼ったり、できたものを集めて、余った破片はゴミ箱へ。
頭では何も考えていないのに、動作に馴染んだ手はロボットのように動き続ける。
気が付けば、時間の感覚がすこしぼやけ、流していたお気に入りのYouTubeも聞こえない。そして同じ動画を幾度と観る。
あんまり続けていると、なんだかもったいないなと思うんだけれど、こんな時間は意外と悪くない。
普段はあれこれ考えすぎて、頭の中がごちゃごちゃしてしまうが、単純作業はその余計な考えを勝手に削ぎ落としてくれる。
それは、瞑想しているときによく似ている。
瞑想の感覚が何を指すのかもよくわからないけれど、けれど、なんだかいつもと違う自分が立ち現れる。きっと一番シンプルな自分でいられる、ってことなんだろうと思う。
ただ、やっぱり私は人間なので、ロボットのように永遠に同じ動きを繰り返せるわけじゃない。
肩は重くなり、破片が服にまとわりつき、腰は椅子に貼りついたように痛んでくる。
「考えない時間」の心地良さへの代償のように、考えなくても体は確実に疲れていく。
それでも、仕事や人間関係とは違い、やった分だけきちんと出来上がっていくのは、ちょっぴり報われた気持ちになる。
小さな繰り返しが積み重なって、確かに目に見える形になっていく。
「手を動かしてきた」という事実だけがしっかりと残る。
「手応え」があること。それがどこか気持ちいい。
思えば、仕事で何か手で触れられるものを扱う機会はほとんどないので、手応えを感じにくい。きっと今のデジタル時代というのは、この「手応え」がどんどんなくなってしまい、自分が何を積み重ねているのかよくわからないことへのちょっとした物足りなさを感じたりするんじゃないだろうか。
だから、たまに、こういうリアルなものを積み重ねていくことの満足感に嬉しくなったりする。
紙の本の良さとかを言っている人っていうのは、こういう感覚としての満足感を求めているんだろうな。
今日も読んでいただき、ありがとうございます。
またまどろみの中で会いましょう。







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