許すこと
- 政美 森田
- 5月8日
- 読了時間: 3分
人を許すことや、人を受け入れることができる人というのは意外にも少ない。
受け入れることは、相性や関係性、環境などにもよるが、許すことであれば、本来は誰しもができるように思う。
多くの場合は、性格の寛容さの問題にされる。しかし実はそうではなく、それは考え方の技術のように思う。
例えば、自分が嫌なことをされたとする。
そういうときは大体、感情的になり悲しみや怒りが大きくなってしまう。それによって陥りがちなのが「相手がした言動」と「相手」を同一視してしまうことだ。
しかし、それはその人の言動の一部であって、本体ではない。だからここで、言動と人を切り分けることが必要なのだ。言動は許さないままでも、そこで相手自身を「許すか」「許さないか」という天秤にかけるのは、そもそもお門違いなのかもしれない。
そんなことをしていたら、この世の中許せない人だらけになってしまう。許せない人たちと生きる社会に、あなたの幸せも喜びもないだろう。
言動の善悪を判断し、許しを乞う場である裁判においても、本当はその人自身が裁かれているのではなく、その人の行動が裁かれている。けれど実際問題、行動自体を取り出して裁くことはできない。だから、刑罰という形で行動を抑制している。
そして結果的にその行動が取り除かれることが、罪を償うということになる。裁判所は人を裁くのではなく、罪を裁くための機関で、そのために言動の原因や根源を理解する場所でもある。
だから、あなたが相手の行動に対して不快になり、それを伝えるとき、それを相手に対して言うのか、相手の言動に対して言うのか、今一度振り返ってみると良い。言動は人の内面を表す。しかし、言動はその人の全てではない。その一部を見て相手を捉えるなら、あなたは少し視野が狭くなっているのかもしれない。相手を理解することなしに判断する習慣は、あなたの選択の信頼性を失わせてしまう。
もちろん、嫌な言動をする人をあなたが受け入れる必要はない。
はじめにも言ったように、受け入れるというのは自分以外の要因も孕んでくるので、全ての人を受け入れて生きることを一人の人間がするのは、限りなく不可能に近い。
そういう場合は相手の行動を許し、自然と距離をとればいい。そしてその時に、絶対を咎めてはいけない。もう関わる必要がないのだったら、あなたの世界にあるルールを押し付けてはいけないし、そんなことをしても意味はない。それに、あなたは別の世界の人に口出しをする権利はない。
そうやって相手を線引きをすることは、結果的に自分を幸せにする。少し辛辣に聞こえてしまうかもしれないが、自分にとって意味のない人を理解することほど無駄なことはないし、気にしてネガティブな感情を持つことも時間の浪費だ。私たちは有限な時間に生きているのだから、あなたを幸せにする方向に時間を使った方がいい。
長々と話してしまったが、この話の結論的には、一度きりの人生なのだから、許す許さないとかそんなことではなく、もっと自分の人生を生きるために使ってみたらどうだろう、ということだ。
今日も来てくれてありがとう。
まどろみの中で、また会いましょう。







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