よさこい
- 政美 森田
- 6月10日
- 読了時間: 2分
先日、知り合いにチケットを譲ってもらい、よさこいを観に行った。
よさこいは毎年街中でやっているので、いつも用事のついでに歩道から覗くことはあって、その度にすごいなーと思っていた。
ちゃんと席に着いて観てみると、人の生み出す気迫というか、心の奥を揺さぶるような振動のようなものを感じた。
私がもらったチケットは、大学生のチームが多い回だったようで、ステージ上に100人を優に超える踊り子たちが一斉に登っていて、人々が踊ることによって生まれる波がなんとも美しかった。
そして何よりも驚いたのがその声だ。
ステージ上のやぐらのようなところに数名、マイク担当の人がいて、その人たちがよさこいの歌を歌ったり、掛け声をする。それに対して踊り子たちが掛け合いをするような形で行われるのだが、100人規模の人たちが一斉に出す声というのは、それだけで圧倒される。個の思い一つひとつが集まったときの、集団としての強さがある。雄叫びのようでもありながら歓声のようでもあったり、とにかくそれはいい意味での脅迫のようにもきこえる。観る人に楽しさ、盛り上がりを否応なしに押し付ける。私たちはそれに抗うことができずに、吸い込まれてしまう。
北海道の「よさこいソーラン」はニシン漁の際に歌われたらしい。
今では漁をするときに歌うことはあまりないと思うのだが、きっと昔の人は、ニシン漁以外のいろんな場面でも、そうやって声を出しあうことで、自分たちを鼓舞していたのだろう。
人の声援もその一つだと思うのだが、人の声には、そういう力が宿っている。
だから、気力を失った今の時代こそ、もう少し声を出す機会を増やしてみてもいいのかもしれない。
日常の中にサラリーマンやOL、街ゆく人へのよさこいがあれば、もっと活気あふれる街になるだろう。
最後まで読んでくれて、ありがとうございます。
また、まどろみの中で会いましょう。







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