10年の呪い
- 政美 森田
- 2024年12月29日
- 読了時間: 3分

最近、自分のプロフィールを求められるタイミングがあり気づいたのだが、私は文章を書き続けて、かれこれ10年になる。26歳の人生の中で10年続いている物事は、そう多くない。
振り返ってみると高校生の頃、何の気なしに入った文芸部。なんとなく自分は本が好きだという風に思っていたが、文芸部は読み手ではなく書き手の部活動だった。最初はどんな風にして文章を書いていったのか、今ではもう覚えていないが、遊びのような感じでリレー小説やランダム俳句などをしたことはうっすら覚えている。
それから10年経って、同じ文芸部の仲間で文章に携わっているのは、演劇の脚本家が一人いる、それくらいだろうか。
今まで他の道に進もうと思ったことは何度もあった。そして、そこには自分の強みとして言葉があった。しかし、全て諦め、結局残ったのも言葉だけだった。
それは一種の呪いのようにも感じる。
「10年も続けていることを今更やめられない」という呪いだ。今になっては自分がなぜ言葉を扱っているのかわからなくなってしまった。
そう感じて思い出してみると、私が本当に言葉に感動したのは中学校の時だと思う。私はその頃合唱部に入っていて、当時の顧問は歌詞や譜面が伝えている意味を重要視した指導を行っていた。そこで出会ったのが新川和江作詞・信長貴富作曲の『春』という歌だった。その中で私がすごく考えさせられた部分がこの歌詞だった。
私は雌鳥のような理屈抜きの情熱で抱きしめる 希望と親愛のたまごを抱きしめる 緑の影に胸を高鳴らせ、心ふるわせ 私はたまごを抱きしめる
これは春の目覚ましい誕生を迎える自然への讃歌で、引用した歌詞は後半部に登場する。この中で“私は雌鶏のような理屈抜きの情熱で抱きしめる”この部分がどうしてもわからなかった。何しろまだ中学生でようやっと恋心が芽吹きはじめたくらいの年だ。だから顧問や合唱部のメンバーとそれがどういう意味なのかを真剣に話し合い、この世界に「母性愛」という名の愛情があることを知った。ここで登場する「私」が持つ強く優しい抱擁をどう表現するか、何度も言葉に出してみて、歌の気持ちを自分に憑依させた。
そんな風にしてさまざまな歌詞の意味を考え、口にすることで、しだいに言葉の魅力に純粋に取り憑かれていた。
私の心に中学生の頃にあった言葉への感動がまだ残っているのかは、正直わからない。しかし、やはり私には言葉しか残っていない。そう考えると「今更やめられない」というよりは「これしか残っていない」なのだろう。どちらにせよ、自分にかけた呪いを今もずっと信じて生きていくしかない。







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