多国籍文化の人々
- 2025年12月11日
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人には色々なタイプがあって「この人とは妙に合うな」とか、「この人とは深い話はよそう」とか、お互いの距離感が測れてくる。
その中でも、全くものの考え方が違うのに、不思議と嫌な感じがしない人がいる。
こういう人は、自分の世界を広げてくれる。
ただこういう人は本当に稀だ。
まったく違う人には、圧倒されてしまって、興味を持てない。
人と人が仲良くなるには、ある程度の重なりが必要だ。
ただ、その共通点はなんでもいい。
レゲエが好きとか、猫が嫌いとか、靴は右足から履くだとか、そんなささいなことでいい。
その重なりにふれ、そこからもっと知りたいと思ったとき、ふと相手の使う言葉と、自分の使う言葉が違うことに気が付く。
それはちょっとした発見であり、小さな語学留学でもある。
私の今の考え方や持つ言葉は、人生に出会ったいろんな人の言語を受けて、「森たまみ語」みたいなふうになっている。
誰しもが生きる中で、気付かないうちに、それぞれの言語や文化を育てている。
だから、相手を知りたいと思ったときには、まずその人がどういうお国柄なのかを知る。マナーを知る。そして次に自分の国はこうなんですという紹介をする。
ちょっと仲良くなると、お互いがそれぞれの言語を話していても、それとなく翻訳できるようになる。
それから、自分が考えごとをしているときに、ふいに別の人の考えが浮かぶ。
わたしはこの瞬間がとてつもなく嬉しかったりする。
その積み重ねが、自分の言葉を、より広い世界で通用する言葉にしてくれる。
だからそういう人は、自分にとって重要な存在。
ただ、最初にも言った通り、こうやって文化交流をできる人っていうのは限られている。
いくら趣味が合う人でも「なんか違うな」と思うし、ずっと一緒にいたのに「どこか安らげないな」と感じていたり。
そういうのはまだ言語化の難しい第六感のような部分にあるのだろう。
今日も読んでいただき、ありがとうございます。
またまどろみの中で会いましょう。



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