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シュレディンガーの猫

  • 2 日前
  • 読了時間: 2分

「シュレディンガーの猫」という話がある。

ときどき文学作品や映像作品などの中にも登場するので、すでにご存知の方もいるだろう。

そしてのこの話はよく、「猫が生きているか、生きていないか、箱を見るまでどちらの可能性も存在している」

このことに焦点が当てて語られる。


しかしいろいろと読んでみると、この言葉が語られた経緯は、ちょっと違うらしい。むしろ彼は真逆の主張を展開していた。


この話が登場する量子力学は、原子や電子といったミクロな存在に対して研究する分野だ。

そして量子力学のなかでは「重ね合わせ」という、不思議な現象が肯定されている。


よく光の実験においても、全く性質の異なる「波」と「粒子」があるのにも関わらず、観測すると「光は波であり粒である」という結果が得られる。

また、電子が壁の穴を通る実験では、電子はもう分割することができないはずなのに、結果的には「右も左も通っている」。しかし、どちらを通っているのかを確認しようとすると、観測できなくなる。


だから、量子力学では「どちらでもある」という意味で「重ね合わせ」が使われる。

シュレディンガーはここに疑問を抱いて猫の例を使った。



箱の中には


・50%の確率で原子崩壊をする原子(崩壊する/崩壊しない)

・原子崩壊を音で知らせる計測器(音が鳴る/鳴らない)

・音が鳴ると振り下ろされるハンマー(降りる/降りない)

・ハンマーが降りると割れる、毒ガスの入った瓶(割れる/割れない)

・生きた猫(死んでいる/生きている)


この5つが入れられ、これは最初の原子「崩壊する/崩壊しない」という「重ね合わせ」の理論が、その後に続くと反応も「重ね合わせ」になるのか、ということを意図している。その結果、猫も「死んでいる/生きている」どちらの状態にもなっているということを、彼は量子力学への皮肉として扱った。


しかしもっと皮肉なのは、一般的には「どちらでもある」ことがおかしいことではなく、ある種のミステリアスな要素として肯定されてしまっていることだ。


今日も読んでいただきありがとうございます。

また、まどろみの中であいましょう。



 
 
 

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