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そこにあったマフラー

  • 2月25日
  • 読了時間: 2分

先日、カフェとご飯屋さんへ行った帰り、自分がマフラーを忘れていることに気がついた。

きっとどちらかのお店にあって、戻ればあったかもしれないけれど、行くことはなかった。


そのマフラーはプレゼントでもらったもので、少しだけお気に入りでもあった。

けれど、取りに行かなかった。


わたしはたびたび、そういうことがある。

スマホや財布を失くしても、自分にとってはおおごとではなく、むしろ周りの人のほうが驚いて、必死になってくれる。


もちろん、経済的な面もあって「失くしたら買えばいいや」が安易にできないので、心当たりのあるところへ連絡して確認してみたり、できるだけ早く自分のもとに戻す手段を考える。


ただ「なくした」という感覚が、わたしにはあまりないのかもしれない。

そこにあったものが、ただ別の場所へ移動しただけ。

もともと私の生活にあったものじゃなく、ただ近くにあっただけ。

わたしの周りには、色々なものがあるようで、本当は何も無い。


実生活はこのように叙述的な感覚で語られるものではないのかもしれないが、きっとわたしは家を失くしたとしても、失くした瞬間に、無いことを受け入れる。


だから、あまり焦ることがない。

もちろん、困ることは困る。手続きも面倒だし、時間も取られる。

けれど、それは「不便」であって、「喪失」ではない。



そしてそれらは、むしろ周りの人のほうが強く反応する。


「え、取りに行かないの?」「絶対見つかるって」「気をつけて」と。

そのたびに、わたしは少し戸惑う。

大事じゃないわけではないのに、まわりが思う「大事そう」に振る舞えない自分がいる。

そんな無頓着なわたしを心配している周囲の人の反応、そこに一番の不安を感じたりする。


わたしのなかでは失くした瞬間、その出来事はもう過去に属していて、わたしはすでに次の時間の中にいる。

だからもうすでに無いことが当たり前になっている。


冷たいのだろうか。

首元は少し寒いだろうが。


今日も読んでいただき、ありがとうございます。

昔から、こんなふうにして失くしたものの多い人生。

またまどろみのなかで会いましょう。

 
 
 

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