雪豹
- 2025年12月15日
- 読了時間: 2分
ときどき「自分はなんで書いているんだろう?」と思いなおしてみる。
わたしがはじめて文章を書こうと思ったのは、高校生の頃。約10年ほど前。
そのときは文芸部に入っていて、小説や俳句、短歌、詩などを書いていた。
当時は文章を書くのがはじめてだったから、自分はどうやって文学作品を作るのだろうかと、俳句や短歌は通学路や授業中に目についたものを書いていた。だから、モチーフとしては筆箱とか、えんぴつとか、バスとか、そんなものを描いていた。
詩や小説は、もっと内省的なものだった。高校2年生の頃、一緒に住んでいた家族を亡くし、わたしはそのとき、第一発見者になった。警察から話を訊かれ、自分だけが知り、語らなければいけないことがあった。死という事実が怖くて、何もいえなかった。
そこから死、あるいは生死の境界に対する捉え方が大きく変わった。わたしの中でぼんやりとしていたものが、はっきりした形で目の前に立ち現れた。ただ、そのおかげで、書くべきものも同時にはっきりしたし、そういう意味で強い出来事というのは、創作の根源になった。
わたしがそこで思ったのは「なかったことにしたくない」ということだった。
それはちょうどピーター・マシーセンの『雪豹』にも近い感覚なのかもしれない。
そして文学を含め芸術は、継承や存在を明らかにする役割がある。
10年経っても、その気持ちは基本的には変わらない。
自分の感情について、自分のまわりで起きた出来事について「なかったことにしたくない」。
そして自分の文章は、わたしだけではなく、きっとこの世界の誰かの感情でもある。
そういう誰かの感情を「なかったことにしたくない」。
誰かが隠しても、自分だけはその存在すべてを認めていたい。
書くことで、不在から存在になる。
一つもとりこぼしたくない。
これがずっと変わらない、わたしの書く意味。
いや、意地だろうか。
今日も読んでいただきありがとうございます。
またまどろみのなかで会いましょう。



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